昭和46年02月15日 夜の御理解



 天地の親神様が私ども、人間氏子の上に、それぞれの運命を定め給うわけですけども、その定めとても、こちらが信心でそれを頂いていく限り、それは素晴らしい神の演出、そして同時に、終幕と言うのは必ずハッピーエンドに終わるように出来ておる。その間様々な、楽しいことやら悲しいことやら、苦しいことやら、もうそれこそ手に汗を握るようなこともあるけれども、そこをお任せの生活というのは。
 そういう様々なところを、まあみんな客観的に、見れれるようになったら、私は素晴らしいと思う、信心自分の上に、はあ神様のご都合に違いはないという頂き方なんですね。そういう頂き方んところに、その必ずハッピーエンドと言う事になるわけなんですけれどもね。それを人為人間心をもって、自分で負けたり、自分でそこをどうかしようとするところに、神様のすさまじいまでの働きを受けることは勿論出来ませんですし、またなんとも言えんいわゆるはあ神様のご神意。
 御都合というものがここにあったのかと思うようなおかげになってこないのですよね。今晩浜本さんのお届けをさしてもらいよりましたら、あの新しい竹の子がこうひとつひとつ、こう皮を剥ぎよるところを頂くんですね。しろうい白粉をふいたような、皮が一つ取れていくにしたがってね、だからこれをたとえば、まだ竹の子ですから上のほうを切って食べれば、それまでのことけどもこれがですね。
 皮が段々段々取れてね、ほんとの竹に成長することになってくるおかげを頂いたら、もうどのような細工にも使われると言った様な竹に、成長の過程に今あるとこ。だから一節一節毎日の中に、一喜一憂しなければならない様な事がある訳なんだけれど、これははぁ節だいわゆる教祖が「やれ痛や、いまみかげをよという心になれよ」と仰るように、はあどう言う事があっても、はあ神様のご都合だとして、有り難いとうけていきゃね、いいわけでなんです。
 それをねはあ、またおてかえったと言った様な、開き直りをするもんですから、おてかえるじゃない前に進みよる。上の方に一つ一つ皮を剥いで、竹が生長しよるようなもんなんですよね。ですからお礼を申し上げるほかにないのです。だからそこんところを「やれ痛や、今みかげをという心になれよ」と仰るのですから、それはまぁ肉親としては、痛いこともありゃ、苦しいことになってくるんですけれどもね、ほんとにこんなにして、いわば浜本の家のめぐりの、御取払い頂いているんだと思うたら。
 また痛いけれども、お礼が申し上げられると言う事になるね、ですから信心起きてきておるそれは、言うなら神様の手の込んだ演出なのですよね、まあ昨日あたりから話を聞かせてもらう、成程神様の演出だなと思うことばっかりです。どうぞそこんところをね、頂いてあのはあこういう神様のご都合だったと、分からせて頂けるところまで、その幕の終幕になるところまでね、おかげを頂いていかなきゃいけんと思いますね。
   どうぞ。